その時の記憶は非常におぼろなのだが。
 ただ喉の痛みを覚えている。ひょっとしたら、怪我をした当初よりもその時のほうがずっと鮮やかに。


 喉に外傷、右手にも外傷、その他もろもろの全身に外傷。
 尾杜の診療所で療養していた俺は、だから話すことや筆談、ジェスチャ、身体を用いて意志を示すこと全般ができなかった。
 それに意識もゾンビ状態ぎりぎりで、まるで透明な膜に覆われたように感覚も感情も動かなかったせいもある。そうすると何かを伝えようとする気力さえ湧かないもので。
 身体はただの器になっていた。


「器が残れば、十分だよ」
 尾杜はそうコメントした。
「僕はね、幼女と極にあるところの成人男性が嫌いなんだ。もう嫌いすぎて眩暈がする」
 白衣に両手を突っ込んで、にやにやと笑う。
「でも仕事としてなら、器が助かってくれただけで僕は大喜び。もう喜びすぎて眩暈がする」
 言いながら彼は俺の頭に指先で触れた。
 笑う。
「言葉は、自分自身や他者と繋がり、過去の記憶や痛みを想起させ、新たな記憶と痛みを生むからね。君があちら側へ行くか、こちらに戻るかなんて僕は本当にどちらでもいいけど。でもどちらを選ぶか、僕はずっと待ってあげててもいい」
 左右の色が分裂している両目は、優しげに笑っていた。


 香織は俺が話せないと知ると、初めはとまどい、困惑した。それはノーマルな礼儀正しい人が見せるような反応で、あからさまなものでない分、本当に良い人間だった。
 香織は、たまに俺のところへやって来た。
 けれど最低限何も話さず、猫のような気配でベッドの端に腰かけて沈黙する。
 一時間かそこらで帰っていく。
 香織をただ観察して見ていると、身のこなしで分かる。彼は純粋な人間だ。彼は戦うための訓練を受けている。そしてそう毎度のことではないけれど、彼は腰の後ろに拳銃を持っている。
 そして。
 拳銃を持っているだろう時より、さらに頻度は落ちるけれど、香織からかすかに血の臭いがする時があった。怒りと緊張が虚脱して乾いたあとの匂いと一緒に。
 今日はひときわひどいことをした日のようだった。彼自身も怪我をして、手当のついでに来たのだろう。ぼんやりと壁に向ける視線は焦点が定まらず、目の下には深い疲労があった。
「ここは、閉ざされていて」
 ふと香織は息をつく。
「とても安心する」
 ゆるやかに息を吐きながらうつむいて、両手でこめかみを擦った。本当に疲れているようだった。
「奪う者に、俺は怒る」
 うつむいた唇からうわ言のように言葉が洩れる。
「俺の、大切なものを奪おうとする者を」
 香織は自分で自分に暗示をかけているようだった。だがその声も、もう限界のように掠れている。
「終わった後は、もういいんだ、と思ってほっとする。心も身体も麻痺したようになって……」
「それが多分、安心するってことだろう」
 なぜだか唐突に、この子はそのうち死ぬだろうな、とふと思った。
 怒りで身を滅ぼし、殺して殺して殺しつくしてから死ぬだろう。麻痺が安心であるという他の何も知らずに、と。
 思った時。
 ふと。
 俺は何か突き動かされて、言葉を言おうとしていた。
 その結果……むせた。ものすごくむせた。
「だ…大丈夫か…?」
 突然のことに香織は軽く困惑していた。それもそうだ。なぜ急に俺が発話しようとしたのか彼には分からないだろう。
 激しくむせて、喉から血があふれる。窒息するような量じゃなかったけれど、傷が開いてしまったようだ。
 香織は手近にあったシーツを掴むと、俺の血がベッドマットに落ちないよう手で受けた。
 それはものすごく鮮明な痛みで、久しぶりに呼吸した空気のように新鮮だった。まるで今しがた生まれたように。その痛みは怪我をした当初よりも鮮やか過ぎた。
 でもそんなことよりも。ああ早く伝えなければならない。痛みが治まる前だろうと今すぐ、血を吐きながらだろうと、香織に「それは違う」と否定の言葉を。



















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