香織が涙を流す瞬間に米良が居合わせたことは数度しかないけれど、彼が泣く前、部屋の空気が湿り気を帯びるので、気配でなんとなく判る。
 今もそんな感じだ。帰宅してすぐ、二人はスーツの上着も脱がずに、米良は香織を抱きしめている。香織は顔を伏せて、額を米良の首元にくっつけている。
 ああ駄目だ。これは泣く。
 米良は理解した。
 ならば、泣き方もよく知らないような彼の、手助けをしなければならない。
 米良は香織の耳元で耽美的に囁いた。
「今は存分に泣けばいい。俺は香織の、ハンカチになりたいんだ」
 けふ、と猫がくしゃみをするような音を発して、香織の肩が震えた。けれど米良の耳に届いたのは、予想と反して彼の嗚咽ではなく笑い声だった。香織は突発的に、笑い出していた。始めは密やかに、だんだんと強く。
「米良、お前、よくそんなこと…真顔で…」
 笑い声の間、切れ切れに言葉を発して、香織は米良の肩に顔を伏せる。息が吸えずに苦しいらしく、それでも笑っている。香織は耐えきれずに米良の肩を押して、身体を離した。夏場、暑さに頭をやられた時と同じ目をして、香織は笑っていた。米良は冷静に思い出した。
 香織はひどく疲弊している時、笑いの沸点がとてつもなく下がるタイプだった。頭の回路を流れる信号が、どこかで誤って混線するらしい。米良の腕から逃れても、ソファの背に手をついて、ハンカチと何度も呟きながらひたすら笑い続けている。
「…俺に、洗って、干されるのか」
 ロマンから程遠い想像をしたらしく、香織はそう言ったきり、顔を伏せて声もなく笑った。肩と背中が震えている。
「面倒だったらティッシュでもいいよ」
 置いてけぼりにされた米良が口を尖らせながら呟くと、さらに身体が震えた。ああこれ何しても笑うな、と楽しくなった米良は香織ににじり寄る。
「さあ香織、俺を使い捨てて」
「おい、やめろ」
 香織は笑いながらぱっと逃げた。笑い過ぎて目尻に溜まった涙を拭い、米良の手を避ける。
「そっちは行き止まりだねえ」
 ちちっと舌を鳴らして、猫をおびき寄せるふうに手を差し出す米良を避け、香織はソファの上を跳躍した。
「誰が泣くか」
 香織は不敵に笑って、クッションを掴んで米良に投げつける。米良は眼前で受け止めて、すぐさま投げ返す。逃げる香織の後頭部にヒット。香織はティッシュの箱を掴んで(掴むとき再度噴き出した)やけっぱちで後方へ投げ飛ばしながら、廊下へ走る。箱を手ではたき落して追いかける米良。大きな音を立て、扉が閉まる。
 それから部屋から部屋へばたばたと移動する追いかけっこの遊びが始まり、外の暗闇に二人分の足音と物の壊れる騒音、何かを叫ぶ声が響き渡った。明るく弾ける二人分の笑い声も。階下に住まう彼らの後輩が二人をたしなめに来るまで、その笑い声は続いた。


















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